山口家
山口家の祖先は、関ケ原の合戦後に筑前福岡藩を領した黒田筑前守の家臣、野田平右衛門です。その孫、野田左五兵衛良久の時に相州上粕屋村に居を移し、山口の姓に改めました。
現在山口家が所在する上粕屋は、江戸時代には上粕屋村とよばれていました。山口家は、上粕屋村を治める旗本5家のうち、間部氏の知行に属しており、間部氏の名主を務めました。
山口家は、5代目当主山口佐七が間部主殿頭の勝手御用を務める小姓として登用されて以来、養子・左司衛門、その孫作肋の3代にわたって国許用人として間部氏に仕え、江戸屋敷では士分として五人扶持を与えられ、国許でも苗字帯刀が許されるなど、名主として村内でも別格の地位にありました。1860年、間部氏はこの山口家を間部家の地代官所とすることとし、1864年上粕屋村の主だったものたちを集めて「以後は、山口家住宅を役所と呼ぶ事」「山口氏を代官とする」ことを申し渡しましたので、以後山口は明治まで間部家の地代官を務めました。
山口左七郎と自由民権運動
山口家8代目当主左七郎は、神奈川県の民権運動の指導者として知られます。左七郎は相模国足柄上郡金子村の名主間宮若三郎の次男で、明治4年8月に山ロ作助の養子となり、明治5年に家督を相続しました。明治14年に自由民権運動の結社「湘南社」を結成し、その活動拠点として、山口家には多くの民権家が出入りし、上記の代官所の役所部分は講学会 の会場としてしばしば使われました。その痕跡は、仏壇を覆う襖、長押に並んだ提灯など部屋のあちこちに今でも残っております。
左七郎は、明治11年に大往・淘綾(ゆるぎ)両郡の郡長に就任、明治23年には第1回衆議院議員に選出されるなど、地域を代表する立場にありました。現在、山口家住宅は「雨岳文庫」と称しますが、「雨岳」は左七郎の雅号で、大山(雨降山)のことです。
右の写真は、「山口佐七郎と妻・槙」